死の淵の私が、静かに人生を振り返ったとき、
波乱万丈に思えても豊かだったと想えたのは、
何度も何度も何度も、繰り返しては飽くことがない、
魂を奮わせ情熱を湧き立たせる日常があったからだ!
もしも私の主体である霊魂から分離した錯覚を懐き、
身体が私の全てで、慾望に振り回されていたならば、
日々の営みが苦痛で、永遠に感じる程の退屈感から、
抜け出そうにも抜け出せず、藻掻き苦しみながらも、
運命の逆転を乞い願い、一時的な好転に満足しては、
自らの慾望に沒れ、早々に人生を諦めていただろう。
けれど、そうなる事なく、
私が「私の人生」を生きたと、今でもこうして言えるのは、
自らの慾望に正直となって、慾望が僅かな内に充たしたからだ。
そして、
空想に付き合わせ、現実に向き合わせず、
考え続ける事を止めるよう仕向けながら、
心を開いて素直になれと、疑念を懐かせないようにしては、
信仰を押売りしてくる同調圧力から逃れるようにした事で、
仕事や金、恋愛や関係性、病や怪我や老い、地位や名誉を得る事など、
古今東西誰もが苦しむとされてきた呪縛から、解放されたからだろう。
あとは、
運命を呪い、偽りの神に祈る虚しい日々に別れを告げて、
与えられた運命に抗う事よりも受け容れることから始め、
森羅万象を司る法則を創り出した神々に頭を垂れながら、
これまでの自分では考えられなかった人生に挑戦し続けたからだろう。
私は、私の人生を生きた!
人生の果実である真の喜びを味わい尽くし、多くの糧さえ持ち帰った。
別の人生を得た、もう一人の私で在るあなたは、
唯一無二の自分の人生を通して、何を持ち帰る事が出来るのだろうか?
私達はそれを今から楽しみにしているよ。
藤次郎拝
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